月別アーカイブ 9月 2015

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垂直統合と水平分散

情報化社会論と人工知能社会論について、もう少し書きます。
80年代の日本のニューメディア開発のほとんどすべてが、最終的に本格的な普及に至らなかったという点では、はっきりと失敗を認めなければなりません。当時、「デルファイ法によって技術予測はかなりの精度でできる」と豪語されていたものですが、実際には当時の中央官庁や大企業が行っていた技術予測はデタラメだったのです。
たぶん、「半導体の集積度が何年後にはどうなる?」というような量的な予測はそこそこできていたのだと思いますが、技術の質的な面の予測は、天才ではない普通の専門家が何10人何100人寄ってたかってもできないのだろうと思います。
80年代の日本で考えられていたニューメディアと今日普及しているインターネットとの決定的な違いは、前者が垂直統合型のネットワークを想定していたのに対して、後者は水平分散型であるという点です。
垂直統合ネットと水平分散ネットの技術的な観点での説明はいろいろあるでしょうが、それはそれとして、「権力」という観点から見れば、物事の本質がより鮮明に見えてくるように思います。
つまり、旧郵政省は、ニューメディアも従来の放送局と似たようなスキームで捉えていたのだと思います。実際に免許制にするかどうかは別として、情報の発信者と一般の受信者をはっきりと分けていたのです。発信者は、絶対的に優位な立場で、つまり、「上」にいて、受信者は、上から降りてくる情報を有難く受け取るべきだという前提が、暗黙のうちに出来上がったいたわけです。
80年代の日本では、キャプテン・システムというニューメディアが開発されていました。当時、まだコンピュータの性能が今ほど高くなかったので、キャプテン・システムで送られてくる画像は、単純な図形と文字の組み合わせのようなものでした。わかりやすく言えば、現在我々が使っているPowerPointの画面のようなものが通信回線を通って送られてくるわけです。そして、画面のどこかを押す(クリックする)と画面が変わるわけです。
そう、初期のWorld Wide Web(WWW)が登場するよりも10年以上早く、表面的には同じようなことがすでに実現されていました。さらに単純な図形の組み合わせではなく、自然画が伝送できる技術の開発にも取り組まれていました。しかし、決定的な違いは、WWWが水平分散型ネットで、誰でもがWebサーバーを立ち上げて情報発信できるのに対して、キャプテン・システムはセンターのコンピュータだけからしか情報発信することができなかったわけです。
キャプテン・システムの推進者たちは、実際に動作するシステムをほぼ完成させて、たとえば私が主催したセミナーでもデモンストレーションをして見せたのですが、「いったいどうやってコンテンツ作成のコストを負担するのかがわからない」というところでつまづいていました。つまり、システムはできたけれど、ビジネス・モデルが構築できなかったわけです。
我々は、今、WWWの経験を通して、そんな心配はする必要がなかったということがわかるのですが、当時は、そんなつまらないことで真剣につまづいていたのです。何がそうさせたのかは、今となっては明白です。情報の発信者と受信者を上下の関係で捉えていて、一般民衆が情報発信をするというようなことには、まったく思い至らなかったからです。
インターネットは、もともとは冷戦時代に米国の国防のために開発された技術なのですが、この水平分散型のネットワーク技術は、幸いなことに民主的な社会を構築することに大きく役立ちました。
しかし、垂直統合と水平分散は、綱引きの関係です。コンピュータ技術の潮流は、この間を行ったり来たりを繰り返しているように見られます。今日、我々が向かおうとしている「クラウド・コンピューティング」は、まさに水平分散から垂直統合への揺り戻しです。
クラウド・コンピューティングの本質は、インターネット産業における勝者が、インターネットでの権力の座を獲得したという勝利宣言でもあります。IBMのWatsonのような人工知能は、データセンターに置かれて運用されることが暗黙の前提となっております。これからしばらくは、このような時代に突入していくものと思われます。
しかし、たぶん、10年か15年すると、また水平分散への揺り戻しが起きるはずです。そのときに、我々がより良い民主的な人工知能技術に出会えることを切に願います。

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人工知能社会論を考える

現在、産業界では空前の人工知能ブームで、一部で「人工知能社会論」まで飛び出してきたとのことですが、それで思い出されるのが、80年代の「情報化社会論」です。当時、私は、セミナー会社で一連の情報通信技術の標準化に関するセミナーを企画・開催して、大いに儲けさせて頂きました。ごっつぁんです。
官製の高度情報化社会論では、今頃、電電公社のINSが全国津々浦々に普及しているはずでした。増田米治先生は元官僚でしたが、退官されて民間で情報化社会論を展開されました。とくに「機会開発者」という概念をつくられて、情報化社会において人びとが知的にして創造的な活動に精を出す理想郷を描かれました。
2015年の現在、我々はあの頃の未来をさらに通り越した未来に住んでいます。
そして、私は、情報化社会論がいかにきれいごとだったかを痛切に感じるわけです。まずインターネットが普及すること、新興のIT企業が台頭して怪しげな商品を売ったり、さまざまなトラブルを引き起こすこと、毎日大量の迷惑メールが送られてくること、企業や官庁から個人情報が漏えいして混乱を来すこと、子供たちが悪い大人の餌食になること、ネット上で新たなイジメの形態が発生すること等々、30年前には予想だにしなかったことばかりです。
もし歴史に学ぶとすれば、「現実は想像をはるかに超えて展開されるだろう」と考えるべきでしょう。
人工知能社会論をチラ見したところ、「人間を超える知性を持つ者と持たざる者の格差」とかなんとか言っているらしいですが、所詮それは一部の権力者やエリートにとって都合の良い想像ではないかと思ってしまいます。
昔は一部のエリートだけが重要な情報を握っていて、一般の人々との間に情報格差が存在しました。だから(私がセミナー事業で儲けたように)情報がお金になったのです。しかし、現在は情報そのものではお金を稼げません。むしろ、STAP細胞やオリンピック・エンブレムの騒動のように、名もなき民衆がネットを使って、権力にあぐらをかいているエリートたちの嘘を暴く時代になってしまいました。
仮に人間の能力を遥かに超える人工知能の開発に成功したとして、それを一部の権力者のために秘匿しておいて、はたしてその能力をいかんなく発揮できるものでしょうか?たぶん、大してうまい使い方はできないことでしょう。
一般の人々が人工知能にアクセスできる社会が到来したとき、たぶん、知性の格差というものがなくなってしまうのではないでしょうか?つまり、誰もが人工知能を使って、複雑な物事の先の先まで熟考した結果を理解することができるようになるでしょう。自分で考える力には個人差がありますが、他人のアイデアを利用するだけなら誰にでもできるのです。結果さえわかれば、少々の頭の良し悪しなんて問題ではないのです。
このような社会では高卒だの大卒だのという差別はナンセンスになってしまいます。実際、私の実感として、海外の超一流の大学を出たような人は、本当に素晴らしいですが、日本の普通の大学を出た人と高卒の人の間にそれほどの差があるとも思えないのです。日本国内の学歴差別というのは、いわれのない差別の一種です。
人工知能社会では、技術的なことをあまり伴わない、ほとんどのデスクワークはコンピュータにとって代わられるでしょう。公務員の大部分は不要になります。人びとは学校教育から解放されるでしょう。(そうゲゲゲの鬼太郎の歌のように。)長い人生の間の好きな時期に好きなことを学べばよいだけです。
このような社会では学歴によって人の身分の上下を決めることが、もはや意味をなさなくなるので、世の中全体が実力主義の空気を漂わせることになるでしょう。しかし、それはそれで世知辛い世の中です。結局、ますます俗物ばかりが幅を利かせる世の中になっていくとも考えられます。