記号の時代–80年代を振り返る

記号論マーケティングと第5世代コンピュータの失敗から考える

1980年代を振り返ると、不思議なほど「記号」という言葉が浮かび上がってくる。

一方では、文化・広告・消費社会の領域で、記号論、ポストモダン、ブランド、差異化、イメージ消費といった言葉がもてはやされた。商品はもはや単なるモノではなく、意味やライフスタイルや自己表現を運ぶ「記号」として語られた。

他方では、コンピュータと人工知能の世界でも、知識表現、論理、推論、エキスパートシステム、Prolog、記号処理AIが未来を切り開くと考えられていた。日本では1982年に通商産業省が第5世代コンピュータ・プロジェクトを開始し、論理プログラミングや並列推論マシンを基盤とする次世代コンピュータの開発を国家プロジェクトとして進めた。

文化の側でも、技術の側でも、「記号」が未来の鍵であるかのように見えた時代。それが1980年代だったと言ってよい。

しかし現在から見れば、その二つの「記号ブーム」は、どちらも深い問題を抱えていた。

記号論マーケティングは、しばしば「記号を消費する」ことを、まるで高度な消費文化のように語った。だが、それは本当に記号論の理解だったのか。むしろ人間を「記号の奴隷」にする発想ではなかったのか。

また、第5世代コンピュータは、論理や記号を操作すれば知能が実現できるという期待のもとに進められた。だが、なぜ当時の日本は、国家的規模でその限界に十分気づけなかったのか。

この二つの問題は、別々の話ではない。どちらも、「記号を扱えること」と「意味を理解すること」を混同した時代の症状だったのではないか。

記号論の本来の意義は、記号を崇拝することではなかった

まず確認しておきたいのは、記号論そのものは、決して「記号を消費せよ」という思想ではなかったということである。

ロラン・バルトの『神話作用』に代表される記号論的批評は、日常生活のなかに潜む意味作用を読み解く試みだった。広告、ファッション、食品、写真、スポーツ、政治的イメージなど、一見自然に見える文化的表現が、実は特定の価値観や権力関係を「自然なもの」に見せかけている。その仕組みを解読することが、記号論の重要な役割だった。バルトの神話論は、記号が社会的・イデオロギー的な意味を帯び、それが自然化される過程を分析するものだった。

つまり、記号論の本来の精神は、記号への服従ではなく、記号からの覚醒にある。

人はなぜ、あるブランドに高級感を感じるのか。
なぜ、ある広告を見て「自然」「健康」「先進的」「自分らしい」と感じるのか。
なぜ、あるライフスタイルが「洗練」とされ、別の生き方が「遅れている」とされるのか。

記号論は、そうした無意識の意味体系を可視化するための道具だった。

ところが、1980年代の消費社会のなかで、記号論はしばしば逆方向に使われた。記号を批判的に読むためではなく、記号を操作して消費者の欲望を設計するために使われたのである。

「記号を消費する」という言葉の危うさ

ジャン・ボードリヤールは、現代の消費社会において、商品は使用価値だけでなく、社会的差異や地位や趣味を示す「記号価値」を持つと論じた。消費者はモノそのものを買っているのではなく、そのモノが示す意味や差異を消費しているというわけである。

この指摘は、消費社会への鋭い批判だった。

たとえば、高級車は移動手段であると同時に、成功や権力の記号である。ブランドバッグは収納道具であると同時に、階層や趣味の記号である。オーガニック食品は栄養摂取であると同時に、倫理性や自然志向の記号である。

この分析自体は有効である。

しかし問題は、それがマーケティングの言説に取り込まれたときである。

「人はモノではなく記号を消費する」
「だから商品に意味を付与せよ」
「ブランドは記号体系である」
「消費者はライフスタイルを買う」

こうした言説は、一見すると高度なマーケティング理論に見える。しかし、そこには危うい反転がある。

本来、記号論は「人間がいかに記号に支配されているか」を見抜くための批判的知性だった。ところが、マーケティングに取り込まれると、「人間をどのような記号で支配すればよいか」という技術に変わってしまう。

このとき記号論は、解放の知ではなく、操作の知になる。

「記号を消費する」ことを洗練された文化であるかのように語るなら、それは記号論の理解ではなく、記号論の倒錯である。人間は自ら意味を創造する主体ではなく、市場が用意した記号を選ばされる存在になる。つまり、「記号の主人」ではなく「記号の奴隷」になる。

第5世代コンピュータもまた「記号の夢」だった

同じ1980年代、日本では第5世代コンピュータ・プロジェクトが始まった。

このプロジェクトは、単なる高速コンピュータの開発ではなかった。従来のノイマン型計算機の延長ではなく、知識処理、推論、論理プログラミング、並列処理を組み合わせ、次世代の知的情報処理システムを実現しようとする壮大な構想だった。1982年に始まったこの国家プロジェクトは、ICOTを中心に進められ、論理プログラミングを中核技術の一つに据えた。

この発想の背景には、当時のAI観があった。

知能とは、知識を記号として表現し、それを論理的に操作する能力である。
したがって、大量の知識を記号として蓄積し、論理推論によって解を導けば、人工知能が実現できる。

これは当時としては決して奇妙な発想ではなかった。エキスパートシステムは一定の成功を収めており、Prologなどの論理プログラミングも有望視されていた。さらに、並列処理によって推論を高速化すれば、従来のコンピュータとは異なる知的な計算機が実現できると期待された。

しかし、結果として第5世代コンピュータは、商業的にも産業的にも大きな成功を収めることはできなかった。プロジェクトは並列推論マシンやKL1などの成果を生み、研究者や技術的知見を残したが、当初想定されたような「知的コンピュータ革命」にはつながらなかった。後年の評価では、並列論理プログラミングや研究者育成などの成果は認められる一方、商業的には失敗だったとされることが多い。

なぜ限界に気づけなかったのか

では、なぜ国家プロジェクトとして、記号処理AIの限界に十分気づけなかったのか。

第一に、当時はまだ「記号処理AIの限界」が歴史的に十分証明されていなかった。

現在の私たちは、機械学習、深層学習、大規模言語モデルの発展を知っている。そのため、記号処理だけで柔軟な知能を実現することが難しいことを、ある程度当然のように感じる。しかし1980年代初頭には、まだ別の未来がありえた。知識工学と論理プログラミングを発展させれば、知能の多くを形式化できるという期待は、それなりに合理的に見えていた。

第二に、日本の産業政策には、過去の成功体験があった。

通産省主導の産業政策は、鉄鋼、自動車、半導体、家電などで一定の成果を上げていた。そのため、次世代コンピュータでも、国家が方向性を定め、企業と研究機関を組織すれば、世界をリードできるという期待が生まれた。第5世代プロジェクトは、技術立国としての日本の自信と結びついていた。

第三に、当時の「知能」理解そのものが、記号に偏っていた。

人間の知能は、言語、概念、論理、推論によって成り立っているように見える。だから、それらを形式化すれば知能に近づけると考えたくなる。しかし、実際の知能には、曖昧さ、身体性、文脈、経験、パターン認識、統計的推測、感情、社会的相互作用などが深く関わっている。

記号処理AIは、「明示的に定義できる知識」には強い。しかし、現実世界の多くの判断は、明示的に定義しきれない。例外が多く、文脈依存で、曖昧で、経験的である。

記号処理AIの限界は、単に計算速度の問題ではなかった。世界をあらかじめ記号で記述できるという前提そのものに限界があったのである。

じつは当時から欧米人の一部からは「第5世代コンピュータは無理だ」との指摘はあった。それを日本人は宗教上の問題だと誤解していた節がある。そうではなくて、日本人が理解していなかったのは西洋の認識論哲学だった可能性が高い。哲学的素養の欠如が日本人の最大の弱点である。

文化の記号論とAIの記号処理は、同じ誤解を共有していた

ここで、記号論マーケティングと第5世代コンピュータは、意外な共通点を持つ。

どちらも、「記号を操作すれば世界を動かせる」と考えた。

マーケティングの側では、ブランド、広告、デザイン、ライフスタイルの記号を操作すれば、消費者の欲望を動かせると考えた。

AIの側では、知識、命題、ルール、論理式の記号を操作すれば、知的判断を実現できると考えた。

もちろん、両者は同じものではない。文化記号論と記号処理AIは、学問的にも技術的にも別の系譜である。

しかし、80年代的精神という意味では、両者には共通する時代感覚があった。

それは、世界を記号体系として捉え、その記号体系を設計・操作・制御できるという感覚である。

この感覚は、当時のポストモダン文化にも、広告産業にも、AI研究にも、国家的技術政策にも流れていた。

だが、その発想は同時に、重要なものを見落としていた。

記号は意味そのものではない。
記号を操作することは、理解することと同じではない。
記号体系を設計することは、人間や社会を理解することと同じではない。

この区別が曖昧になったところに、80年代の「記号の時代」の限界があった。

記号論を理解していたのか

では、80年代に記号論をもてはやしていた人々は、本当に記号論を理解していたのか。

答えは、半分は「理解していた」が、半分は「消費していただけ」だったのではないか。

思想としての記号論を理解するとは、記号がどのように意味を作り、どのように権力や欲望や階層を自然化するかを見抜くことである。

しかし、80年代の消費文化における記号論ブームの一部は、記号論そのものを一種のファッション記号として消費していた。記号論、ポストモダン、脱構築、シミュラークル、差異、テクスト、コード。これらの言葉は、批判的思考の道具であると同時に、知的で先端的に見えるための記号にもなった。

つまり、記号論を語ること自体が、ひとつの記号消費になった。

これは皮肉である。

記号論は、本来なら記号に支配されることを暴くための思想だった。ところが、記号論そのものが「知的ファッション」という記号になり、消費社会に回収されてしまった。

この意味で、80年代の記号論ブームは、記号論の勝利であると同時に、記号論の敗北でもあった。

第5世代コンピュータの失敗は、単なる技術選択の失敗ではない

第5世代コンピュータについても、単純に「失敗」と切り捨てるだけでは不十分である。

実際には、並列処理、論理プログラミング、知識処理、研究者育成など、一定の成果はあった。国際的にも注目され、米国や欧州のコンピュータ政策に影響を与えた。

しかし、より根本的には、「知能は記号操作で実現できる」という前提が過大評価されていた。

もちろん、現在のAIも記号を使っていないわけではない。大規模言語モデルも言語という記号列を扱っている。しかし、その内部で起きていることは、古典的な意味での明示的な記号推論とは異なる。膨大なデータから統計的・分散的な表現を学習し、文脈に応じて柔軟に生成する。

現代AIの成功は、記号を捨てたからではない。
むしろ、記号を「明示的なルール」だけで扱うのではなく、記号の背後にある潜在的なパターン、文脈、類似性、意味空間を学習する方向に進んだからである。

ここに、第5世代コンピュータとの大きな違いがある。

第5世代は、記号を論理的に操作しようとした。
現代AIは、記号が生まれる背後の分布や文脈を学習している。

これは、単なる技術の違いではない。知能観の違いである。

80年代の教訓

80年代の記号ブームから学ぶべきことは、記号が無意味だということではない。

むしろ逆である。人間社会は記号に満ちている。ブランドも、広告も、政治も、宗教も、企業理念も、技術ビジョンも、すべて記号を通じて意味を持つ。AIもまた、言語という記号を扱うことで人間と接続している。

問題は、記号を過信することである。

記号を扱えることと、意味を理解することは違う。
記号を操作できることと、現実を動かせることは違う。
記号を消費することと、自由に生きることは違う。
記号を論理的に推論することと、知能を持つことは違う。

80年代は、この違いを十分に区別できなかった時代だったのではないか。

記号論マーケティングは、人間の欲望を記号体系として操作できると考えた。
記号処理AIは、人間の知能を記号体系として形式化できると考えた。
どちらも、一定の真理を含んでいた。
しかし、どちらも、世界の曖昧さ、身体性、文脈性、歴史性、経験性を過小評価していた。

記号を超えて

しかし、最終的に問われるべきなのは、記号をどう操作するかではなく、記号を超えて物事の本質にどこまで近づけるかである。

記号は必要である。人間は言葉なしに考えることができず、概念なしに世界を整理することもできない。商品名、ブランド、理論、モデル、カテゴリー、指標、肩書き、制度。私たちは無数の記号を通して世界を理解している。

だが、記号は世界そのものではない。

「高級」「革新」「本物」「成功」「知性」「美」「合理性」「自由」といった言葉は、何かを指し示してはいる。しかし、それらの言葉そのものが実体なのではない。言葉はあくまで指標であり、記号であり、仮の足場である。

仏教には「如実知見」という言葉がある。物事を、自分の欲望や恐れや思い込みによって歪めるのではなく、あるがままに、如実に見るという意味である。

これは、記号論の限界を超えるための重要な視点になる。

記号論は、私たちがどのような記号体系に縛られているかを明らかにする。だが、それだけではまだ十分ではない。記号の構造を見抜いたあとに、なお問われるべきことがある。

それは、

では、その背後にある実相は何か。
その商品、その技術、その人間、その社会、その問題は、実際には何であるのか。

という問いである。

たとえば、ブランドを見たとき、私たちはそこに高級感や先進性や信頼性という記号を読み取る。しかし、それをいったん外したとき、その商品には本当に価値があるのか。使う人の生活をよくするのか。社会に必要なのか。単なる差異化のための差異ではなく、現実の効用や意味を持っているのか。

AIについても同じである。「知能」「自律性」「エージェント」「AGI」「企業変革」といった言葉は強力な記号である。しかし、それらの言葉に幻惑されている限り、実際に何ができ、何ができず、どこに危険があり、どこに本当の価値があるのかは見えなくなる。

記号を読む力は重要である。
しかし、記号にとどまってはならない。

記号を読み解き、記号に支配されている自分を自覚し、そのうえで記号の背後にある現実を見ようとすること。そこに、記号論を超えた知の方向がある。

仏教的に言えば、それは「名」に囚われず、「相」に迷わず、物事を如実に知見する姿勢である。

人間は、言葉によって世界を切り分ける。しかし、切り分けられた世界だけが世界ではない。名前を与えられたものだけが存在なのではない。むしろ名前を与えた瞬間に、私たちはその対象を固定化し、既知のカテゴリーのなかに閉じ込めてしまう。

だからこそ、本質を見るためには、記号を使いながらも、記号を絶対視しない態度が必要になる。

マーケティングも、AIも、思想も、経営も、最終的にはこの問題を避けて通れない。

人を動かす記号を作ることはできる。
市場に響く言葉を設計することもできる。
概念を整理し、モデルを構築し、世界を説明することもできる。

しかし、それらが本当に意味を持つのは、記号の操作を通じて、記号を超えた現実への理解に近づく場合だけである。

80年代の「記号の時代」が残した教訓は、記号を扱う知性の重要性であると同時に、記号に囚われることの危険性でもあった。

これからの時代に必要なのは、記号を巧みに操る能力だけではない。
記号を疑い、記号を透かして、その向こう側にある実相を見ようとする態度である。

つまり、記号論の先にあるべきものは、記号の支配ではなく、記号からの自由である。
そしてその自由は、仏教でいう如実知見、すなわち物事をあるがままに見る知に近い。

興味深いことに、西洋記号論でいうシニフィアンとシニフィエの関係は、仏教用語の「能詮」と「所詮」によく対応している。能詮とは、言い表すもの、すなわち言葉・経典・記号であり、所詮とは、それによって言い表される意味・教え・内容である。サンスクリット語では、能詮は abhidhāna、所詮は abhidheya に対応するとされる。

だが仏教の関心は、単に言葉と意味の関係を分析することにとどまらない。むしろ、言葉によって切り分けられた世界を実体と誤認し、それに執着する人間の迷いを問題にする。ここに、ソシュール的記号論を超えて、如実知見へ向かう仏教的な記号論の深みがある。

合わせ言うと、大乗仏教の根本である中論や唯識論は、西洋哲学にもけっして劣らないどころか千年以上も先取りした高度な哲学である。

これからの「記号論」はどうあるべきか

では、記号論はもう古いのか。

そうではない。

むしろ、AI時代のいまこそ、記号論は再評価されるべきである。ただし、それは80年代的な意味での記号論ではない。

必要なのは、記号を消費するための記号論ではない。
記号を操作するためだけの記号論でもない。
必要なのは、記号がどのように意味を作り、人間の認識や欲望や判断を方向づけるかを読み解くための記号論である。

AI時代には、言葉、画像、ブランド、データ、推薦、ランキング、生成コンテンツが、かつてない速度で流通する。人間はますます記号の海のなかで生きることになる。

そのとき重要なのは、記号に流されることではない。
記号を信仰することでもない。
記号を解読し、記号の背後にある構造を見抜き、必要であれば別の意味体系を作り直すことである。

1980年代は、記号の時代だった。
しかし、それは記号を理解した時代だったというより、記号に魅了され、記号に振り回された時代だったのかもしれない。

現代の私たちは、その失敗から学ぶ必要がある。

記号は、人間を自由にすることもあれば、奴隷にすることもある。
AIもまた、人間の思考を拡張することもあれば、既存の記号体系を増幅するだけの装置になることもある。

だからこそ、いま必要なのは、記号を崇拝することではなく、記号を読み解く力である。

記号の時代をもう一度迎えるなら、今度は「記号に支配される時代」ではなく、「記号の構造を自覚的に扱う時代」でなければならない。

弊社が開発したConceptMiner/ThinkNaviが少しでも、その一助となることを願うばかりである。

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