――「語れない知」を「言語化すれば取り出せる知」と誤解したナレッジマネジメント論
マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』は、しばしば「人は言葉にできない知識を持っている」という一文で要約される。
有名な言い方をすれば、ポランニーは「われわれは語りうる以上のことを知っている」と述べた。顔を見れば誰かを認識できるが、なぜその顔だとわかるのかを完全に言葉で説明することはできない。自転車に乗れる人は、重心移動や筋肉の微細な調整を行っているが、それを物理法則や手順書として説明できるから乗れるわけではない。
ところが、このポランニーの暗黙知概念は、日本の経営学、とくにナレッジマネジメント論の中で、かなり違った意味に読み替えられてきたように思われる。
その代表が、野中郁次郎氏らによる知識創造理論である。
野中氏のSECIモデルでは、知識創造は「暗黙知」と「形式知」の相互変換として説明される。すなわち、共同経験による「共同化」、暗黙知を言葉や概念にする「表出化」、形式知同士を組み合わせる「連結化」、そして形式知を身体化する「内面化」である。野中氏の理論では、暗黙知はメタファー、アナロジー、モデルなどを通じて形式知へと変換され、組織内で共有可能な知識になると説明される。
この理論は、経営学としては魅力的である。組織の中に埋もれた経験知を、対話や共同作業によって表に出し、文書化し、共有し、新製品開発や組織学習に活かす。いかにも日本企業の強みを説明する理論に見える。
しかし、ここで重大な問題が生じる。
それは、そのように「表出化」できるものは、本当にポランニーが言った意味での暗黙知なのか、という問題である。
ポランニーの暗黙知は「まだ言語化されていない知識」ではない
ポランニーの暗黙知を理解するうえで重要なのは、暗黙知を「まだ言語化されていない知識」と考えないことである。
もし暗黙知を、単に「本人がまだうまく説明できていない知識」と考えるなら、熟練者にインタビューし、ワークショップを開き、ファシリテーターが問いかけ、ホワイトボードに整理すれば、暗黙知は徐々に形式知へ変換できることになる。
しかし、ポランニーが言っているのは、そのような話ではない。
ポランニーの暗黙知は、知識の奥に隠れている未整理の情報ではない。それは、そもそも明示的な知識が成立するための背景的・身体的・統合的な働きである。
ポランニーは、意識には「焦点的意識」と「従属的意識」があると考えた。たとえばハンマーで釘を打つとき、私たちの意識の焦点は釘に向かっている。しかし同時に、手の感触、ハンマーの重さ、腕の動き、身体の姿勢などを背景的に感じ取っている。これらの要素は、釘を打つ行為を支える従属的な意識として働いている。
重要なのは、この従属的なものを焦点化すると、もとの働きが壊れてしまうという点である。
ハンマーをうまく使っているとき、人は手の感触を通して釘に向かっている。しかし、「いま手のひらにどのような圧力がかかっているか」「指の角度は何度か」「腕の筋肉はどう動いているか」と一つひとつ意識し始めると、かえって釘をうまく打てなくなる。
つまり、暗黙知とは、明示化を待っている情報ではない。
それは、明示的に何かを知ること、見ること、判断すること、行為することを可能にしている背後の統合能力なのである。
「暗黙知の形式知化」は、ポランニー的には矛盾を含む
この点から見ると、「暗黙知を形式知に変換する」という表現は、ポランニーの立場からはかなり危うい。
もちろん、熟練者の経験から手順、コツ、判断基準、注意点を聞き出すことはできる。これは有益である。技能伝承、業務改善、マニュアル作成、教育訓練において大きな意味を持つ。
しかし、それは暗黙知そのものを形式知に変換したのではない。
実際に行われているのは、暗黙知に支えられた行為の一部を、言語・図・モデルとして外側から記述しているだけである。
この違いは決定的である。
たとえば、料理人の包丁さばきを文章にすることはできる。
職人の判断基準をチェックリストにすることもできる。
営業担当者の顧客対応をロールプレイ教材にすることもできる。
しかし、それを読んだからといって、ただちに料理人、職人、営業の達人になれるわけではない。なぜなら、形式知は、暗黙知の代替物ではないからである。むしろ形式知を理解し、活用し、状況に応じて適用するためにも、暗黙知が必要なのである。
この点は、ポランニー解釈をめぐる研究でも繰り返し指摘されている。たとえばTsoukasは、野中・竹内流の「暗黙知は形式知へ変換される」という解釈は、ポランニーの暗黙知が本質的に言語化不可能な側面を持つことを見落としていると批判している。 また、Grantも、ナレッジマネジメント分野ではポランニーの議論がしばしば誤解されてきたと指摘している。
日本的ナレッジマネジメントは、暗黙知を「組織資源」にしてしまった
では、なぜこのような読み替えが起きたのだろうか。
一つには、経営学という実用的な学問の要請がある。
経営学は、企業が使える理論を求める。
組織に埋もれた知識を活用したい。
ベテランのノウハウを若手に伝えたい。
現場の知恵を商品開発に活かしたい。
個人に属する経験を組織の資産にしたい。
この目的自体は正当である。
しかし、その目的のためにポランニーの暗黙知を使おうとすると、暗黙知はいつのまにか「まだ文書化されていないノウハウ」へと変質する。
その結果、暗黙知は、インタビューすれば取り出せるもの、会議をすれば表出化するもの、メタファーを使えば概念化できるもの、マニュアル化すれば共有できるものとして扱われる。
これは、ポランニーの暗黙知というよりも、むしろ未整理の経験情報や職場ノウハウに近い。
もちろん、それも重要である。
しかし、それをポランニーの暗黙知と呼ぶなら、話は大きくずれてしまう。
記号認知型の誤読
ここで、「記号認知」と「空間認知」という対比が意味を持ってくる。
記号認知型の人間は、世界を言葉、概念、分類、モデル、手続きとして捉えようとする。彼らにとって、知るとは、何かを定義し、命名し、分類し、説明可能にすることである。
このタイプの知性は、学校教育、官僚制、経営学、情報処理、AI研究、コンサルティングなどと相性がよい。
一方、空間認知型の人間は、世界を構造、配置、力の流れ、身体感覚、全体のバランスとして捉える。機械をいじる人、絵を描く人、建築を考える人、料理をする人、スポーツをする人、あるいは多変量データの構造を直感的に見る人は、このタイプの認知を強く使っている。
ポランニーの暗黙知は、明らかに後者に近い。
それは、言葉の奥にあるものではなく、言葉が成立する前に働いている認知の構造である。
記号化される以前に、身体と世界が接続している次元である。
全体を見て、部分を統合し、意味ある形として把握する働きである。
ところが、記号認知型の人間は、このような暗黙知を理解するときでさえ、それを「言語化されていない知識」として捉えがちである。
そして、「言語化されていないなら、言語化すればよい」と考える。
ここに、ポランニー誤読の根本がある。
第5世代コンピュータとナレッジマネジメントの同時代性
興味深いのは、この誤読が1980年代から1990年代にかけての日本的な知的風土と重なっていることである。
1980年代、日本では第5世代コンピュータ・プロジェクトが進められた。そこでは、知識を記号として表現し、論理推論によって知的処理を行うという発想が大きな期待を集めた。これは、いわゆる記号処理AIの発想である。
同じ時期からその後にかけて、日本企業の強みを「知識創造」として説明するナレッジマネジメント論も登場した。
一方はコンピュータ科学の領域で、知識を記号化しようとした。
もう一方は経営学の領域で、組織の暗黙知を形式知化しようとした。
両者は別の分野の話ではある。しかし、そこには共通する知的傾向がある。
それは、知を記号化できるものとして捉える傾向である。
この意味で、日本のナレッジマネジメント論における暗黙知理解は、第5世代コンピュータ的な記号処理思想とどこかで通底していたように見える。
すなわち、人間や組織が持つ知を、言語、概念、モデル、ルール、データベースとして取り出せるものと考える。その背後にある身体性、空間性、状況性、実践性、熟達の不可分性は、二次的なものとして扱われる。
しかし、まさにそこにこそ、ポランニーの暗黙知があった。
暗黙知は「隠れた情報」ではなく「見る力」である
ポランニーの暗黙知を、もっと正確に言えば、それは「頭の中に隠れている情報」ではない。
それは、世界を見る力である。
意味を把握する力である。
部分を全体へ統合する力である。
身体を通して対象に向かう力である。
言葉や記号を意味あるものとして使うための基盤である。
したがって、暗黙知は、言語化によって完全に取り出されるものではない。
むしろ、暗黙知は、訓練、模倣、実践、失敗、反復、身体化、環境との相互作用の中で育つ。
優れた職人の横で仕事を見る。
絵を何枚も描く。
機械を分解して組み立てる。
料理を何度も失敗する。
データを眺めて、異常なパターンに気づく。
アルゴリズムを数式だけでなく、空間的な構造として理解する。
こうした経験を通じて、人は「言葉にできないが、わかる」世界に入っていく。
それは会議室でのブレインストーミングや、付箋を使ったワークショップだけで生まれるものではない。
本当に必要なのは、暗黙知の形式知化ではなく、暗黙知が働く場の設計である
もちろん、組織において経験を共有すること、対話すること、言語化を試みることに意味がないわけではない。
むしろ、それは重要である。
しかし、その目的は「暗黙知を形式知に変換すること」ではない。
本当に重要なのは、暗黙知が働く場を設計することである。
熟練者と初心者が一緒に作業する場。
身体で試せる場。
失敗できる場。
全体構造を見渡せる場。
言葉だけでなく、図、モデル、プロトタイプ、シミュレーションを通じて考える場。
多様な認知タイプが補完し合う場。
このような場をつくることこそ、ポランニー的な意味での知識経営に近い。
ナレッジマネジメントが本来目指すべきだったのは、知識を文書化して蓄積することだけではなかったはずである。
それは、人間がどのように世界を見て、感じ、判断し、行為するのかを支える環境をつくることだったはずである。
暗黙知と非線形性
ただし、ここで注意しなければならないのは、ポランニーの暗黙知を「絶対にモデル化できない神秘的な知」と考えてしまうことも、また別の誤解だということである。
ポランニーの暗黙知の一部は、現代的に言えば、非線形性の問題として理解できるように思われる。
人間が顔を見分ける。
職人が素材の状態を見て判断する。
医師が患者の様子から異変を察知する。
熟練した営業担当者が相手の反応を見て話し方を変える。
データ分析者が多次元データの中に奇妙なパターンを見つける。
これらは、単一のルールや明示的な言語命題に還元しにくい。しかし、それは単に「説明不能」だからではない。多くの場合、そこには多数の微細な手がかりが複雑に組み合わさった、非線形な判断構造がある。
たとえば、顔認識では、目、鼻、口の形を個別に見ているだけではない。
各部分の相対的位置、輪郭、陰影、表情、動き、記憶との照合などが、全体として統合されている。
この統合過程は、言語的なルールとしては表現しにくい。
しかし、だからといって構造がないわけではない。
むしろ、構造はある。
ただし、それは線形的・逐次的・記号的な構造ではなく、非線形的・分散的・全体的な構造なのである。
この点で、現代の機械学習は、ポランニー的暗黙知の一部を科学的・工学的に表現することに、少なくとも部分的には成功しているように見える。
ニューラルネットワークは、明示的なルールを人間が書き下すのではなく、大量の事例から特徴空間を学習する。画像認識、音声認識、自然言語処理、異常検知、推薦システムなどでは、人間が明文化できない複雑なパターンを、統計的・非線形的なモデルとして捉えることができる。
もちろん、これはポランニーの暗黙知そのものを完全に再現したという意味ではない。
機械学習モデルが獲得するのは、身体を持った人間の実践知そのものではない。
それは、入力データと出力判断の関係に潜むパターンを、数理的に近似したものである。
しかし、それでも重要なのは、「言語化できないものは何も表現できない」というわけではないという点である。
記号的なルールとして表現できない知であっても、非線形な特徴空間、確率的な関係、埋め込み空間、ニューラルネットワーク、クラスタ構造、グラフ構造として、別の仕方で表現できる場合がある。
ここに、ポランニーの暗黙知と現代AIをつなぐ重要な論点がある。
「形式知化」ではなく「構造化」
この観点から見ると、暗黙知を扱ううえで本当に重要なのは、「暗黙知を形式知に変換する」という表現ではない。
むしろ必要なのは、暗黙知の働きが現れる構造を、どのように捉えるかである。
野中理論的なナレッジマネジメントでは、暗黙知はしばしば「言葉にして共有すべきもの」として扱われた。そこでは、暗黙知から形式知への変換、つまり表出化が重視される。
しかし、ポランニー的に考えれば、暗黙知は単に言葉の手前にある情報ではない。
それは、知覚、身体、経験、判断、環境との相互作用の中で働く統合能力である。
したがって、それをすべて言語に変換しようとするのではなく、暗黙知がどのような状況で働き、どのような手がかりを統合し、どのような判断や行為として現れるのかを、構造として捉える必要がある。
ここで、機械学習や多変量解析は重要な役割を持つ。
たとえば、熟練者の判断を大量の事例データとして集める。
判断に影響していそうな観察項目を記録する。
言語化された説明だけでなく、画像、音、動き、時系列、操作ログ、環境条件なども含める。
そのうえで、非線形モデルやクラスタリング、次元削減、グラフ構造化によって、判断の背後にあるパターンを探る。
このような方法は、暗黙知を「文章」に変換するのではない。
暗黙知が作用した痕跡を、データ空間の構造として捉えようとする試みである。
これは、ポランニー的暗黙知を完全に捉えるものではない。
しかし、少なくとも従来の「会議で話し合えば暗黙知が表出化する」という単純な発想よりは、暗黙知の複雑さに近づいている。
暗黙知は、単に言語化されていない知識ではない。
それは、しばしば非線形な統合構造として働いている。
したがって、必要なのは、暗黙知の形式知化ではなく、暗黙知の構造化である。
AI時代におけるポランニーの再読
この視点に立つと、AI時代にポランニーを読む意味は、よりはっきりする。
大規模言語モデルは、膨大な記号を処理する。
その意味では、LLMは極めて高度な記号操作装置である。
しかし同時に、現代のAIは、古典的な記号処理AIとは異なり、ニューラルネットワークによって非線形な特徴空間を学習している。つまり、現在のAIは、単に「ルールを記号で処理する機械」ではなく、人間が明示的に書き下せないパターンを、分散表現として捉える機械でもある。
ここに、第5世代コンピュータ時代の記号処理AIとの大きな違いがある。
第5世代コンピュータは、知識を論理式やルールとして表現しようとした。
それに対して、現代の機械学習は、知識を高次元空間内の重み、ベクトル、確率分布、特徴構造として表現する。
この意味で、現代AIは、ポランニーの暗黙知を完全に理解したわけではないが、少なくとも「知はすべて記号的ルールとして表現できる」という古い幻想からは一歩離れている。
ただし、ここでも注意が必要である。
機械学習が表現しているのは、暗黙知そのものではなく、暗黙知的な判断や行為の一部を、データから近似したモデルである。
人間の身体性、状況性、意味理解、価値判断、責任ある行為までは、そのまま機械に移植されているわけではない。
それでも、機械学習が示したことは大きい。
それは、言葉にできないものにも構造があるということである。
そして、その構造の一部は、数学的・統計的・計算的な方法によって捉えられるということである。
この点を踏まえるなら、ポランニーの暗黙知をめぐる議論は、単なる「言語化できるか、できないか」という二分法を超える必要がある。
重要なのは、次の三つを区別することである。
第一に、言語化できる知。
第二に、言語化は難しいが、データ構造や非線形モデルとして部分的に表現できる知。
第三に、身体性、実践性、価値判断、存在の関与を含むため、モデル化してもなお残余が残る知。
ポランニーの暗黙知は、この第二と第三の領域にまたがっている。
ナレッジマネジメント論の誤りは、これを第一の領域、つまり「言語化されていないだけの知識」として扱ってしまった点にある。
一方、現代の機械学習が示している可能性は、暗黙知の一部を第二の領域、すなわち非線形構造として扱えるかもしれないという点にある。
ここに、ポランニーをAI時代に再読する意味がある。
「語れない知」を尊重すること
日本のナレッジマネジメント論は、ポランニーの暗黙知を経営学に導入した点では大きな功績があった。
しかし同時に、それは暗黙知を「表出化できるもの」として扱うことで、ポランニーの最も重要な洞察を薄めてしまったのではないか。
ポランニーが言いたかったのは、
「人間の中には、まだ言葉にされていない知識がある」
という単純な話ではない。
むしろ、
「言葉で語られる知識そのものが、語れない知に支えられている」
ということである。
この違いは大きい。
暗黙知は、形式知の原材料ではない。
暗黙知は、形式知を可能にする土台である。
この点を見失うと、私たちは再び、すべての知を記号化し、モデル化し、データベース化できるという幻想に陥る。
そして、その幻想は、第5世代コンピュータの時代にも、ナレッジマネジメントの時代にも、そして現在のAI時代にも、繰り返し現れている。
いま必要なのは、暗黙知を「言語化して取り出す」ことではない。
むしろ、語れない知があることを認めること。
記号の背後に身体があることを認めること。
概念の背後に空間的・実践的な把握があることを認めること。
そして、記号認知と空間認知の両方を含んだ、より広い知性のあり方を考えることである。
それが、ポランニーの暗黙知を、いま改めて読む意味ではないだろうか。
野中理論を全否定する必要はない。組織内の経験を対話によって共有し、メタファーやモデルを通じて新しい概念を生み出すという発想には、実務上の価値がある。しかし、それをポランニーの暗黙知そのものの説明と考えると誤る。野中理論が扱っているのは、ポランニー的暗黙知というよりも、組織内に蓄積された経験知・職場ノウハウ・未整理の実践知である。そこを区別しないまま「暗黙知の形式知化」という言葉が広まったことが、日本における暗黙知理解を混乱させた最大の原因である。
コメントを残す